この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。
だがこの目に見える現実だけが現実であると思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。
たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では役に立たないが」という弱気な前置きで話す。文学像がすっきり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれていないのに)文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説で読者をけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない。語ろうともしない。
文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない。
漱石、鴎外ではありふれているというなら、田山花袋「田舎教師」、徳田秋声「和解」、室生犀星「蜜のあはれ」、阿部知二「冬の宿」、梅崎春生「桜島」、伊藤整「氾濫」、高見順「いやな感じ」、三島由紀夫「橋づくし」、色川武大「百」、詩なら石原吉郎・・・・・と、なんでもいいが、こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるきりちがったものになる。
それくらいの激しい力が文学にはある。読む人の現実を生活を一変させるのだ。文学は現実的なもの、強力な「実」の世界なのだ。文学を「虚」学とみるところに、大きなあやまりがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われていたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、実学の立場は見えてくるはずだ。(荒川洋治「文学は実学である」『忘れられる過去』)
文学とは 知恵の源泉
荒川洋治氏は「文学は実学だ」と説きます。文学はただの言葉の羅列ではなく、私たちの内なる感情や葛藤、喜びや悲しみを映し出す鏡ではないでしょうか。
それは、実存の根源に触れ、真実と美を求める知恵の源泉でもあるのです。文学は実学であり、現代人の生活に直結した知識や洞察を与えてくれると思えてなりません。私たちの心を豊かに育て、人間的な成長を促してくれるでしょう。
小説や詩、随筆などの文学作品は、現実の出来事や人間関係、社会の問題に光を当て、深い洞察を与えてくれます。そして他人の視点や感情に共感し、自分自身を客観的に見つめ直す機会を得ることができるのです。
また、文学は想像力(創造力)を刺激し、私たち読者の思考を広げる役割も果たすでしょう。文学作品は言葉の魔法で新たな世界を創り出し、そこで異なる価値観や文化を探求することができるような気がします。
付言するなら、それは私たちに新たな視点や知識をもたらし、深い洞察を提供するだけでなく、自己との対話を通じて自己理解を深める手段であるかもしれません。
文学は言葉の魔法によって人々の心に触れ、時には鋭く痛切な現実を描写し、時には奇想天外な冒険の世界へと誘います。しかし、どのような形をとろうとも、私たち現代人の生活に密着し、人間の営みを深く理解する上で有効な手段であるといえるでしょう。
それは私たちに、知識や洞察をあたえてくれるはずです。人間の心を豊かに育てたり、刺激したりし自己理解を深める手助けとなります。文学の持つ洞察と美しさに触れることで、人間の本質や存在について考え、成長し続けることができるのではないか、と。
*以上、blog運営者 書評 (文学とは 知恵の源泉)
文学を実学と論じる作家や実業家たち
- 井上靖(いのうえ やすし、1895年 – 1976年):日本の小説家であり、実学派の作家として知られています。彼は文学を通じて人間の実存や社会の問題を追求し、読者に洞察を与えることを重視しました。
- 三島由紀夫(みしま ゆきお、1925年 – 1970年):日本の作家であり、随筆家でもあります。彼は文学と実践を結びつけることを提唱し、自己啓発や身体鍛錬などの実学的な要素を作品に取り入れました。
- 稲盛和夫(いなもり かずお、1931年 – ):日本の実業家であり、京セラの創業者です。稲盛氏は「経営は実学である」との考えを持ち、実践的な経営哲学を展開しました。彼の著書や講演には文学の要素も取り入れられており、文学と実学の結びつきを示しています。
これらの人物は、文学を単なる理論や抽象的な概念ではなく、実学として捉え、実生活や実践において重要な洞察や知識を提供すると主張しました。彼らの著作や思想は、文学の力が実学としての意義を持つことを示しています。
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